No.27: 近衛文麿公爵みるに理想のリーダー像とは?



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近衛文麿公爵みるに理想のリーダー像とは?

第34・38・39代の総理大臣にして、戦前日本において 公家最高の家系に生まれた
近衛文麿
をご存じでしょうか?

太平洋戦争を語るとき、必ずでてくる人物で、 人によっては、この人物は対米戦争に追い込まれた最大の戦犯である と言われる方です。

筆頭貴族の身におきながら、色々な人の意見を聞くなど…
度量の大きい面もあったようです。

結構、ダメダメリーダーとしての評価が多いですが、
果たしてその通りなのか?否か
少々、考えてみたくなりました。

思うところ、思うままに記述してますので…
少々、まとまりがないですが、ご容赦を…



 























 


 公爵 近衛文麿


まず、年表にすると
1891年 東京市麹町区にて誕生
1904年 父親の篤麿の死去に伴い、近衛家の当主となる
1916年 貴族院議員となる
1919年 パリ講和会議に参加
1937年 第一次近衛内閣が発足され1ヶ月後に盧溝橋事件が発生する
1939年 日中戦争の和平交渉に失敗し内閣を総辞職
1940年 第二次近衛内閣を発足する
1941年 第三次近衛内閣を発足するが日米交渉の失敗により総辞職
1943年 和平交渉グループの中心人物となる
1945年 終戦後、戦争責任をアメリカから問われ自殺する(享年54歳)
となります。

近衛は、最後の元老たる西園寺公望の後押しを受け、政治家として名を成します。
また、学習院→京大と進むのですが、学友である木戸幸一(のちの天皇最側近の内大臣)、 原田熊雄(西園寺の秘書)とは終生の友人であったようです。
(この方々に関する本は、結構でています。そのうちの何冊かを僕も読んでいます。いい加減な性格なもんで、著者が誰とか記憶がないんですけど・・・ 当時の軍事色が強まる中で、英米協調の政治を死守しようとしてしきれなかった背景が読み取れます。)

1936年226事件の後、
広田内閣(現役武官大臣制を復活させたことが理由か?文官にしてA級戦犯で死刑)に なるのですが、陸軍の暴走により内閣は辞職し、その次の林内閣もそうそうにつぶれ、 そのあとに満を持して、第一次近衛内閣が発足します。

長身にして容姿端麗、そしてその性格のためか、当時、国民に絶大な人気を背景にして、 総理になりました。
当時、総理候補は元老である西園寺が昭和天皇に推薦するという形で選ばれていたそうで、 西園寺は、軍部からの支持もある近衛に軍部を抑えるように期待していたそうです。

そして、この1次内閣で、まずひとつめの失敗です。
1937年盧溝橋事件の対応で
優柔不断な対応に終始してしまい
陸軍の横暴にずるずると引きずられます。
停戦工作を行うも、行き詰って総理を辞職しました。

また、このころドイツとの同盟問題が持ち上がっていて、近衛は前向きな姿勢で、この時は軍事同盟に至らなかったものの 戦争への道を進めていたとも言えます。(ちなみにこの同盟に強硬に反対をしていたのは米内海軍大臣、山本五十六次官のいる海軍省でした)

1940年7月に近衛は2回目の内閣を率います。
この内閣で戦争に突き進む施策を成していきます。
大政翼賛会を結成し、一国一党組織を確立。
前内閣の米内内閣が反対していた日独伊三国同盟を成立させます。
これ、アメリカを牽制するつもりの同盟であり、 日本首脳は、当初米国と戦争するつもりは皆無でした。
けど、この同盟が米国の態度を硬化させることになります。
また、ベトナムへの進駐もおこないます。

そんな日本の行動に、アメリカが貿易を絞る等の措置をとったため、慌てた日本、
アメリカに交渉を持ち掛け、1941年4月に日米了解案がもちあがったのに、
外相の松岡の反対にあって、とん挫、
いい人ゆえになんでしょうけど…(なんで部下の言うこと聞くの?)
で、この松岡を追い出して第3次内閣を組閣するも、
強硬化してくる米国の要求と陸軍の意見との調整ができず、
1941年10月に近衛内閣は総辞職します。
近衛は、辞職の直前まで、なんとかなると楽観し、抜本的対策を打たず、
(いたるところでいい顔をし続け・・・) 最後の最後になって追い詰められて無責任に逃げだすという評になります。
本来は、もっと前に、できたかどうかは別として、陸軍に鈴をつける、松岡外相の 暴走を許さないなどの確固とした対応をしていれば、歴史は違っていたかも・・・ と思わせるのです。

ゆえに、戦争を始めた時の首相は東条ですが、
もう、近衛が内閣を投げ出したときは、実質、対米戦は避けられない 状況であり、誰がやっても結果は同じ…と言う人も多いようです。

ここまでが、近衛文麿公爵が対米戦争を招いた最大の責任があるといわれるダメダメエピソードです。

この近衛は、戦争末期には、他の重臣と協力して 終戦工作に大きな役割を果たしたようであり、ここは評価されるべきものと思います。

そして、戦後、戦犯指定が入り、
いざ収監という前に自殺をして生涯を終えます。


 

 



 リーダーの資質


ダメリーダーの代表格とも言われかねない
近衛文麿
果たして彼は、リーダーとしての資質はあったのだろうか?
リーダーとして失格ではないだろうか?

冷たい言い方になりますが、
リーダーは結果責任であると思います。
その意味で、リーダーとしては失格であったと思います。

しかし、資質はどうか?

 











そもそもリーダーの資質とは・・・
と考えると・・・
様々色々あると思いますが、究極、
①人をひっぱっていく力がある(魅力がある)
②正しい判断力と決断(実行)力がある・・・
この2点であると思います。

ただ、一番大切な要素は、
人を率いていく力がある=人気がある
であると確信します。
そもそも、正しい知識、正しい判断、果断な行動力があろうとも、 人がついてこなければ、話になりません。

逆な言い方をすれば、個人的能力がなかろうと
人を引き付ける能力があれば、項羽と劉邦の比較ではないですが、 より多くの人を動かし、より大きな仕事ができるのだと思います。

そう考えると、公爵近衛文麿は十分にその資質があったと思うのです。
ただ、時代のニーズにあっていなかったのかなあとは思わずにいられません。

素性の知れない人が近衛の家を訪ねてきたのに、話を聞いてあげて その素性のしれない人を家に泊めることがあるというエピソードがあるくらい、 人の意見も聞くし、人当たり、包容力もある人です。
そして人気もあった・・・
一番重要な資質を備えていたといえます。

ただ、時代は、混乱期でした。
正しい判断のもとに、信長のような自分の意思を押し通す力が必要であったとも思うのです。

親友であった木戸幸一は近衛を以下のように評しています。

柔軟で包容力があるというか、まことに「聞き上手」だったね。また開放的性格のためか、 国民の間になんとも言えない人気があった。しかも陛下のおぼえもよかったから、 あれに一本筋金が入っていたら、まったくかんぺきと言っていいのだが……。 ところがいざというときのふんばりがたりない。そこでいつも困ったんだ。

この評をみて
決断力が近衛にあれば…
と思わなくもないですが、
もし、近衛が強烈な決断力というか自分の意見を押し通す 人間だったら、「聞き上手」であったとは思えないし 決断力が弱いからこそ、人の意見も聞くし、柔軟な性格であったと思えます。

ただ、その性質は、いい方向に働くこともあれば、違う方向に働くこともあるということです。
で結果からいうと悪い方向に…

多分に、近衛は、日米開戦を避けるべきという正しい判断力は持っていたが、
陸軍に対し、自分の意思を主張しきれなかったための結果といえるかと・・・

ただ、これは、後出しじゃんけん的な、後世の人間だから言えることであって、
軍事色強まる戦前日本において、そのイケイケな方向性に逆向きな姿勢を見せれば、 暗殺されかねない世の中であったことを考えると・・・
致し方なかったのかもしれません・・・
(三国同盟に反対していた当時の山本五十六海軍次官は、遺書を机に いれていたというくらい・・・不穏な世の中だったわけです。 本当に、平和国日本に生まれてよかったと思います。)


さておき、現代社会における企業経営におけるリーダーに当てはめると・・・
正しい判断力と決断力は特に重要です。

現在、社会は変革期であり、情報を集め、正しい判断力と経営の方向性を決める決断実行力は 非常に重要な要素です。
航路を間違えれば沈没しかねない時代です。正しい航路を選択する必要があります。

そして、リーダシップも大切です。特に人手不足の世の中に突入することも考慮すると 組織の求心力を高めることは、これまた、非常に大切です。

リーダーのタイプは大きく2つに分かれていて、
自分の考えを推し進める信長型リーダーと
他人の意見を聞く協調型リーダーとに
なると思いますが・・・

今の時代は、どちらかといえば
協調型が望まれると思います。(パワハラとかセンシティブな世の中ですし・・・)
かと言って、組織が間違った方向に向きかけたとき、 正しい方向に戻すために、どうすべきか?と言えば、 協調型だと部下を強く指導しずらいとかあると思います。
そこで、大切なのは 説明力であると思います。

いくら正しくても、「俺についてこい」
でついてくるのは、昭和のドラマの中だけ・・・
と思った方がいい時代です。


従業員に状況を説明し、事業の内容を理解させ、
従業員も十分に理解・納得して、
皆が同じ方向を向いて事業を行えるようにすることこそ、
中間職も含めて、今の企業のリーダーに求められることだと僕は思います。

ただ、求められるリーダー像は確固として決まったものはないと思います。
時代によって、または、地域、業界、組織、労働者のプロフィール等、そのリーダー自身の性質、その組織の抱える様々な要因によって 求められるリーダー像は、当然、変わってくるものと思います。

近衛公も時代が異なれば、名宰相と言われていたかもしれないわけで・・・